幸世くんは、私なんだよ

ひとり旅が好き。好きなんだけど夜になるとどうしようもなくさびしくなってしまって、さびしさの正体について考えていた。(ひとり旅の夜のそれに限らず、人生におけるさびしさについて)
 
私が人生のバイブルと崇めている漫画・テレビドラマのひとつに『モテキ』があって、この記事のタイトルにある〝幸世くん〟はその主人公。(ちなみに劇場版も、大好きな大根仁氏が監督しているがこれはちょっといただけない。あくまで漫画とドラマ版が好き。)複数の女子から好意を寄せられ、沢山のチャンスにも恵まれる〝モテ期〟がやってきたのにも関わらずいずれもモノにすることが出来なかった彼は思う。

 

『俺が唯一親から教わったのは、
束縛をしないという優しさだった。
だからなのかなぁ、
ほどけるほどの強さでしか
人と繋がれないのは。
もしほんとに神様とかいう人が
いるとしたら、
なんか試されたんだろうな、俺。
「お前にモテキを与えよう、
さてそのモテキの中で果たしてお前は
誰かと強く繋がることができるかな?」
とかって。』

自分の感じるさびしさはまさにこれなのだ。〝ほどけるほどの強さでしか人と繋がれない。〟

 

幸世くんは、私なんだよ。

 

コミュニケーションの上手い人は、自己開示をして自分の弱さ・欠点を人と共有することが上手くて、程良いバランスで人に甘えたり頼ったりすることが出来るから、近過ぎず遠過ぎない正しい距離で人と生きてゆくことが出来る。

それが出来ない。出来ない人間は、自己と対峙して思考を巡らせる時間が余りに多過ぎる。だから強く人と繋がれない。極端に言ってしまえば他人に対する興味関心が薄いのだと思う。自分のことで精一杯どころか自分自身のご機嫌取りやマネジメントができなくて、コンプレックスとの折り合いが何十年生きても付けられない。

 

人から好意を寄せられても、相手を受け入れる隙が心のどこにもない。だから、自分のことはこれっぽっちも見ていないような、自分には全く関心を持たず見向きもしないような人にばかり一方的な想いを持ってしまう。今までそれは不幸なことだと思っていた。可哀想な自分、と。でも楽だからだったんだということに気が付いてしまった。相手と向き合わなくていい、ひとりよがり、自己完結。最初から好かれてもいないなら嫌われることもない、失うものもないし。

 

弱さや欠点と常に一対一で対峙しなくてはならないけれど正面からきちんと向き合う強さもなく、だからと言って人に寄りかかることは下手。本当は甘え切ってしまいたいけれど拒まれることの不安が勝った結果、その本心を見破られることを恐れて、反動でどんどんひとりよがりの強がりになっていってしまう。
この悪循環。時々このループから一生抜け出せないんじゃないかと強い不安に支配されてしまうことがある。でも抜け出すも抜け出さないも自分次第であり努力しかないのだろう。誰かがえいやと引っ張り出してくれることを期待しないこと。

 

ちなみに『モテキ』の主人公・〝幸世くん〟は、4人の女の子からはそれぞれ違う呼び方で呼ばれる。「藤本くん」「藤くん」「藤本」そして「幸世くん」。いちばん親密さを感じさせる呼び方は「幸世くん」だけど、それを使う女の子・小宮山夏樹ちゃんとは心理的な距離がいちばん遠い。人との距離がいちばん近いようでいて実はいちばん遠くて不器用なのが彼女だと思ったから、私も彼女に倣ってタイトルで「幸世くん」という呼び方を使いました。物理的な距離と心理的な距離が比例しない、実は孤独な彼女。

 

あと幸世くんの名誉の為に言っておくとするならば、彼は少なくとも私よりは、自分のだめな部分をさらけ出しても構わないという覚悟を持っている。いざという場面では、醜くても恥ずかしくてもまとまらなくても、きちんと自分の言葉で相手に伝えようと必死になれる。相手に真摯に向き合える。それが多分彼のいちばんの魅力であり、私との違いだ。